文章が溢れる世界。残るのは、利益の外で書き続けてる人だけなんじゃないかな?
今日から通常モード。
すごく久々な気がする。現実世界ってやっぱり早すぎる気がしてて、これを実現するためにはあらかじめあの人に連絡しておいたほうがいいよね。あ、でもそれするなら先にこっちでこれを作っておいた方がスムーズになるからちょっと作業するか。この作業時間中にスタッフがあれをつくっとくと他のものにも使えるから指示だけ出しといて、ああSNSに公開しておかないと出演者に失礼になるか、、、みたいな感じでひたすらに処理するスピードが上がっていく。
これ自体は物事を動かす上で必要な能力だとも思うけど、豊かさってのは大体遅いと感じるところにあるので、豊かではない。気がついたら一日終わってて、それ自体は充実感もあるかもしれないけど、自分が何を食べたのか、いつ風呂に入ったのか、どうやって笑ってたのか後で思い出せない日々が増えていく。そういう時間があること自体はいいんだけどね。それだけだとねって感じ。
とはいえその早すぎる世界で知り合った人たちとゆったりとした時間を過ごすときに得るものが多かったりするのもまた事実。たとえばこの間は人を誑かす天才と仲良くなった。いわく、5000人を超えるFacebookの友達全員の誕生日のお祝いと、その事前プレゼント準備、さらに関係性を温めるために年+3回のお誘い。こういうのを経済的利益のためにシステム的にやり切ってる人たちもいるけど、この方は純粋に「やりたい」って気持ちでやってて全くできる気がしない境地に達してた。
それこそ僕もFacebookの友達4000人くらいはいるけど、仲良い人でさえ誕生日連絡したら返信するの大変だろうなって思って、誰かのおめでとー連絡にスタンプだけするってことをしてしまう。この差よ。何かを生み出す人は前者よ間違いなく。
こういう人は感謝できるところを日々探しているように見える。一番コミュニケーションとりやすいのは「この間はありがとうございました」だからだ。お礼が言える時は、会う理由にもなる。かなり論理の飛躍があるものでも、無理やりにこじつけて感謝するのは全員にとってはっぴー。「あの時、ちょろっとでもお会いさせていただいてたから、繋がったと思うんですよね!」みたいなことを言えるかどうか。深いな、人間関係。
こういう話って、大きな意味で自分にやりたいことがある時めちゃくちゃワークするんだと思う。たとえば、BtoBのビジネスで、経営者と会うことがそのまま長い目で営業になるような時、とてもワークする。どうせ買うならあの人から、の心理は人類普遍。僕もそうやって思い浮かぶ人がたくさんいる。
ただ、これの単価が安い場合はどうなんだろう?
1件100万円なら、年間500人で5億円。ビジネスとして成り立つ。一方で、1件1000円なら、年間500人で50万円。ビジネスとしては成り立たない(いやもちろんこれだけだったらって意味で)。個人の資質が「人と会うことを厭わない」ってものであるならば、前者の商材を扱うところにいる方が生きやすそうだなって思う。またビジネスに毒された考え方だけど、これを「好きなことばっかりやってたらお金になった!」という形だけに落とし込むのはまた違うと思うので。
僕のように人に会うのを厭う人間は、この戦略はやっぱりとれないなって思う。自分ができると思ってることに人は嫉妬できるけど、はなから無理でしょこれって思ってるものはほぼ魔法にしかみえない。僕にとって、彼の行うこの人に会うやり方は魔法。再現不可能。もしかしたら本気を出せば1ヶ月くらいはできるのかもしれないけど、その先数ヶ月寝込むことが目に見えてるので、そういう意味でも魔法。
でもきっと人はその分他に時間と能力を用意されてて、僕だったらこの文章書く時間とか、内省する時間とかが標準装備されてるわけです。この時代において「人に会う」と「文章を書く」だったらどっちがビジネス的に成功するのか?はちょっと考えてみてもいいかもしれない。
それこそ「人に会う」は、正確にいうと「いい感じで人に会う」だけど、人類普遍。およそ何かを成し遂げる人はここの能力が秀でてたことが多いんだと思う。古来より。ネットがない時はもっと重要な要素の一つだった気がする。
一方で「文章を書く」はどうだろうか?
古来より評価されてた気がするけど、それは一部の突出した才能のみ。太宰とか芥川とか紫式部とか。そういう時代も才能もがっちりハマった人のみ活きてて、それ以外の人にとってこの能力は機能しなかったんだと思う。そこからインターネットが生まれ、多くの人にチャンスが巡ってきた。その中でも書く人、読む人にわかれ、懐かしすぎるROM専の方々が多数の時代、彼らに支えられ文章を書く人が希少になり、「文章を書く」が価値として顕在化してきた。
さらにそこから時代が変わり、書くことがLINE も含め当たり前になり、もっというと生成系AIによってこの世の文章は爆発した。随分前から読むことが不可能と言われてたこの世の全ての文章は、今日一日で生成された文章さえももう一生かけても読むことはできなくなった。僕たちが今書くものは、誰にも読まれないことを前提にした方がいいのかもしれない。もうそういう時代。
で、ここからは未来予測になるけど、とすれば文章は廃れる。一部の特権階級の娯楽、超伝達スピードが必要とされる一部のビジネスパーソンのみが利用する手段。位置付けとしては、ラテン語みたいな感じなのかな?原著で読めよって言っちゃうアレになる。これはもう仕方ない。その上で、文章を原作、原液とするあらゆる表現は増え続けると思う。てかほぼほぼ確定。ほぼ確。
文章→漫画→アニメ→音楽→ゲームとかとか、文章→実写映画もそうだし、文章→YouTubeやTikTokもそう。脚本も含めて考えると、たぶん今僕らが触れてるほぼ全てのエンタメは文章起点で、それがさらに増え続ける。今まではそこの変換に高コストがかかってたから数が限られてたけど、今後は文章→アニメみたいなのが秒で作成できる世界線になる。これもほぼ確。
であれば、インターネット上に文章を書く人とROM専に分かれてた過去のWeb1.0〜2.0時代から、インターネット上にアニメーションを公開する人とそれを観るだけの人であるSOM専(SEE ONLY MEMBER)とかが生まれる世界なんだと思う。今の僕らが普通にやってるアニメの視聴がSOM専と言われるの、なんかすごいな。だけど結構硬い未来。ほぼほぼ起こる。
そのときに「文章を書く」という能力は、もうちょっと細分化して考えた方がいい気がしてて、たとえば、ほんとにゼロイチ的に何かを生み出してる、それはフィクションでもノンフィクションでも日記でもなんでもいいんだけど、そういうものを生み出している人と、既存の情報群を今の人に適切に届ける形に変更してる、編集している人とには分けれそう。今はどっちも「文章を書く人」って整理されてるけど、なんか違う。生成系AIでどっちも再現可能かもしれないけど、そうなったときに前者のゼロイチの人はどんな扱い受けるかというと、「まだ人が書いてるらしいよ!すごいよね!」みたいな感じになるんじゃないかな。「この時代にマジで?すご!」みたいな。
で、人によっては「やっぱり人が作ってるから温かみがあるよね」みたいに言われる。んなわけないのに。人間って不思議。意味を持たせたがる。おそらくAIがつくってものを人が作ってるって言っても同じこと言われそう。人間っておもしろ。意味がいるんだよね、受け取ったり、生きてく上で。
将棋がどれだけAIに勝てなくなったとしても、棋士はかっこよくて、その姿を見て人は感動する。それと同じように、AIがどれだけ感動する文章を書けるようになったとしても、文章を書く人はかっこよくて、その姿を見て人は感動するんだろう。この未来もほぼ確。楽しみ。
そこまで先じゃなくても、ここから10年くらいはAIによる文章が溢れまくてて、それを原作とするもうちょっとリッチな表現もそれに伴って増えまくって、AI原作のアニメや、AI脚本の映画、AI企画のYouTuberやTikTokerが大量に生まれてくる。そんな中「文章を書く」のは、純粋に「文章を書く」のが好きな人だけになっていく。儲かったり得したりしなくなるからね。その世界、早くこないかなぁ。
ぼくが文章を書いてることを知っていちばん受ける相談は、「書いてて辛くなりました」「好きだったはずなのに書くことなくなってしまいました」みたいなものです。そういう人のために「孤独な執筆を終わらせるAI」つくりました。よければ。
