才能はあるのに、評価される才能に嫉妬してしまう。
特異な才能によく出会う。
初期値をキワキワに分配して、それが評価されて、さらにチャンスを掴んでってループに乗っている人たち。眩しい。そりゃ才能フェチになるよなぁって思う。
一方で経済的にある程度地位とかをゲットしてると、この「特異な才能」を潰すことも可能になる。なんという怖い世界か。立場や地位が上になればなるほど高い倫理観を求められるのはある種当たり前なんだろう。ハンターハンターのメルエムが数多ある「強さ」の中で、暴力こそが最強の強さだ!と鼻息荒く言ってたんですが、現代の日本だと「経済力」とか「政治力」とかが最強の強さなのかもしれない。数多ある他の強さを、ただ「お金にならない」だけ、ただ「評価されない」だけで、無価値のように扱えてる。そしてそれ自体に無自覚という状態。たしかに「強い」けど、貧しい。こんなのが至る所で起こってる。
今日友達が「ビジネスのつよつよの話するの疲れた」って言ってた。めちゃ気持ちがわかる。そういうのが全部悪いってわけじゃないんだけど、自分の一日がそれ一色に染められてしまうってのはどうもそうじゃないでしょという話。一人になって篭って、自分が好きなことや時間を再認識して、再度それで人生を埋めるようなアクションをしたくなる。今日一日、その24Hをどう埋めるかってだけが人生なはずなのに、いつも僕らは未来のことだったり、過去のことだったり、今その周辺のことだったりに影響を受けて、24Hに、いやもっというと今この瞬間に集中できない。ただただ楽しいことをやればいいはずなのに、将来のちょっとしたメリットやちょっとしたデメリットのために、今一番やりたい行動以外の行動をしている。つくづく不思議な生き物だ。
この「ただ書く」が楽しかっただけの時間も、ちょっと誰かから褒められたり、コンテストみたいなのに通っただけで、もっと多くの人に読まれたい!評価されたい!もっと俺をみて!ほらほらこんなことできるんだよすごいでしょ!となってしまう。なんという危ういバランスの中成り立ってたのかがよくわかる。いやわかってなかった。わかってきたというか。つまりそれ自体は成長なわけで。喜ばしいのかもしれない。
ビジネスの場面では、いろんな言い切りが出てくる。「〜です!」という度に何かが減ってる。「〜かもしれないし、その反対かもしれない」ってのが世の中のほぼ全てのことだと思っているのに、言い切ることがパワーになることも知ってるから言い切る。「絶対うまくいきます!」。言い切るのが誰かの力になることも知ってる。そして、すくなくても絶対うまくいくと僕自身は思ってますという表明であることも間違いない。だけど、それは純度の高い僕の言葉ではない。もっとこの一言に至った背景や考え方を全部共有した上で「僕自身としては絶対うまくいくと確信しているし、むしろそうなって欲しいという願いが強くなりました。だからこそ一緒にやりたいと思ってます」みたいに自分を主語にして、今時点自分が考えてることにして全部正直に喋りたい。そういうのがあるだけで僕はバランスが取れる。そしてそれがないだけで、こうして文章が進むわけです。
「才能」というものが、「ついやってしまう行動や思考の癖」だと考え抜いた結果たどりついてるのに、「評価される才能」とごっちゃにしてしまう。彼女を羨ましいと思ってしまう。彼女がこれから得られるだろう評価に嫉妬してしまう。枯れてなかったと喜ぶべきか、器の小ささに嘆くべきか。まだわからない。
ぼくが文章を書いてることを知っていちばん受ける相談は、「書いてて辛くなりました」「好きだったはずなのに書くことなくなってしまいました」みたいなものです。そういう人のために「孤独な執筆を終わらせるAI」つくりました。よければ。
